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未来図鑑

【卒業生インタビュー】

マンガ家/成安造形大学非常勤講師
たかはし慶行

マンガ家の道へ飛び込めたのは
成安でいろんな人脈や
つながりに恵まれたから

海外に誇る日本のコンテンツ産業を支えるマンガ家。そんなマンガ家への道のりは、けわしく、狭き門だと聞くけれど、そこを突破するには何が必要なのだろう。マンガ雑誌「ヤングガンガン」で、パン職人の群像劇を描く『聖樹のパン』を連載中のたかはし慶行さんに、デビューから現在の活躍に至るまでの経緯を聞いてみる。たかはしさんはどうやって、チャンスをつかんできたのだろうか?

—勝手な思い込みなんですが、マンガ家は東京で活動していると思っていました。

そうですよね。マンガ雑誌の出版社は東京にしかないですから。でも、関西で活動しているマンガ家は結構いますよ。特に大阪は多いですね。

—編集の方とのやりとりはどうされているんですか?

僕はスクエア・エニックスっていう出版社の雑誌「ヤングガンガン」で連載をしていますが、今の担当者とは3回しか会ったことがなくて。基本電話ですね。いつも2時間くらいしゃべりっぱなしです。後半は携帯を持つ手が固まっていますけど(笑)。

—物理的な距離の面で仕事のしづらさを感じる部分はないですか?

東京で活動しているマンガ家よりも不利なことは正直ありますね。顔を合わせて打ち合わせをしたほうがいいし、東京だと持ち込みもしやすい。アシスタントの仕事も山ほどあるので。でも、東京へ行かないと仕事ができないわけではないので、その人次第かな。

—ところで、たかはしさんが最初に描いたマンガはどういうストーリーだったんですか?

大学3年生のときに描いたのが最初で、確か攻殻機動隊みたいなものをテーマにしたと思います。あの頃は完全に中2病にかかっていたので、「みんな騙されて世界が滅ぶ」みたいな、壮大なテーマを扱わないといけないと思っていて(笑)。夢中で描いていたら200ページくらいになっていましたね!

—すごい! 処女作にして大作ですね。

アホでしょ(笑)。パワーが有り余っていたから、あれもこれも入れたくて、膨大なページ数になりました。
実は、僕が在学していたころはマンガの授業はなかったんです。でもマンガ家になりたかったので、授業を全部マンガに結びつけていました。例えば、写真の授業で作品を作る課題が出たら、写真をコマ割にしてマンガにしたりとか。

—ということは、ほぼ自己流でマンガを描いていたってことですか?

そうですね。根拠のない自信だけはあったんですよ。成安でマンガサークルに入っても、僕が一番絵を描くのが上手いと思っていたし、マンガを投稿するときも、ヘタしたら大賞をとるかもしれないっていう気持ちで描いていましたね。自信がないとアマチュアの時にマンガなんて最後まで描ききれないですから。後輩にもよく言うんですけど、学生のころは天狗になることが大事ですね。

—分かります。若さゆえの怖いもの知らずというか、強さってありますもんね。その後も自己流でマンガを描き続けていくんですか?

3年生の後期から、プロのマンガ家のアシスタントをしました。成安の卒業生に鹿賀ミツル先生(代表作は「週刊少年サンデー」に連載されていた『ギャンブルッ』)がいて、大学にアシスタントの募集がきたんです。こんなチャンスはないと思って、すぐに立候補をしました。でも鹿賀先生は実家で仕事をされていて、両親と姉妹で暮らしていたので、週刊の連載のアシスタントは泊まりになるから、男の子は困るって言われてしまって。

—その問題はどうやって解決したんですか?

でも諦められないから、せめて作品だけでも見てもらいたくて、鹿賀先生のところに持っていきました。そしたら先生もこれだけ描けるんやったら手伝ってほしいって言ってくれて。1週間後に、先生から採用の連絡をもらいました。先生の実家は奈良だったので、滋賀から片道3時間かけて通う日々が半年続きましたね。

—ちなみに、アシスタントって何をするんですか?

背景を描いたり、トーンを貼るのがメインです。大変でしたが、僕はアシスタント経験のおかげでマンガの基礎を学びました。やはり現場なので教えてもらえる内容も実践的で濃いんですよ。本当にラッキーでした。今思うとマンガ家の道へ飛び込めたのも、成安を通していろんな人脈やつながりがあったからなんですよね。

—卒業後はどのようなマンガ家人生を歩まれるんですか?

僕が卒業の頃に鹿賀先生の新連載が決まったので、正式なアシスタントとして雇ってもらいました。友だちも一緒に雇われることになったんですが、2人じゃぜんぜん手が足りなくて…。週刊の連載は忙しすぎるから、心身ともにギリギリに追い込まれて、些細なことでイライラするようになって。今は仲良いですけど、当時は先生と険悪になったり、一緒にやっていた友だちの鼻息にも腹をたてていましたね。

—そこからデビューするきっかけは何だったんですか?

ある日気がつくんです。マンガの賞を獲ったらアシスタントを辞められるかもしれないっていうことに。嫌だから辞めるっていうのは何も残らないけど、自分でマンガの賞を獲って辞めるのは前向きなことだって。アシスタント業の合間をぬって必死で描いたら、1年後にスクエア・エニックスマンガ大賞で佳作に選ばれたんです! そしたら同時期に、鹿賀先生から連載が終わるという連絡がきて。

—すごいタイミングですね!

誰も傷つけずに辞められたんです(笑)。そこから僕の新人マンガ家人生が始まりました。佳作の作品は雑誌に掲載されないので、デビューするまでに1年くらいかかるんですけど。

—その1年間は編集さんと、どういうやりとりをするんですか?

ストーリーの方向性や表現の仕方を一緒に考えたり、絵が今っぽくないから、妖怪を取り入れたらとアドバイスをされました。妖怪マンガは絵の古さをカバーしてくれるんですよ。そこからひたすら妖怪系の読み切りを描いて、OKをもらったのがデビュー作『大雨女』です。楽しいことや悲しいことがあると、全部雨でおじゃんになるお話ですね。

—具体的なアドバイスをくれるんですね! 連載されていた『化けてりや』も編集さんとの打ち合わせの中で生まれたストーリーなんですか?

そうですね。もともと僕の案の段階では妖怪の要素はなくて。ストーリーを考えるのは担当者とマンガ家が半々くらいです。一般の人はマンガ家が一人で描いていると思っている人が多いんですけど、それは手塚治虫先生や藤子・F・不二雄先生など天才の話であって。僕らマンガ家は面白そうでしょっていう案を出すのがメインで、最終的な整合性は担当者がとってくれます。あくまで僕の仕事での話しですけど。

—より面白いストーリーになるよう程よく味付けしてくれるんですね。ストーリーができたら次はネームですか?

プロットですね。紙芝居みたいなものを作るんですよ。やりたいシーンや見せ場だけを描くんです。それが楽しそうに描けていたら担当者からOKをもらえます。適当に思いついたものを描いていたらすぐにバレますね!

—そうなんですか! さすがプロの編集者!

新人のうちは絵のチェックも厳しいので、下書きをしたらスキャンをして、担当者に全部送ります。「腕を長く」とか、「もっと可愛く」などの指示がくるので、それを修正してペン入れしていく感じですね。

—絵が完成するまでの道のりは遠いですね。ちなみに、現在「ヤングガンガン」で連載中の『聖樹のパン』では作画を担当していますが、どういう流れで決まったんですか?

『化けてりや』の連載が終わって、次の連載に向けて準備をしている時にお話をいただきました。ちょうどその頃おかんがパン屋で働きはじめたので、自分でも取材ができるし、ちょうどいいと思ったんですよ。

—不思議なご縁ですね! 作画を担当する上で大切にしていることは何ですか?

マンガの舞台になっている小樽の空気感や、読者が思わず食欲をそそられるようなパンの描き方ができているかという部分です。原作の山花典之先生はベテランのマンガ家なので、ネームを見るのも勉強になるし、指示も的確なので作画の仕事はすごく楽しいです。でもいつかまた、原作から描くマンガで連載の仕事をもらいたいので、ここからまだまだ頑張りたいですね!

—最後に、たかはしさんが2017年4月、イラストレーション領域に入学するならば、専門コースと、専門コース以外に複数の授業を選択できる他のコースは、それぞれどれを選びますか?

専門は「マンガ・絵本コース」を選んで、他のコースは「風景イラストコース」かな。やはりマンガに役立つかどうかを考えますね。僕の中で「背景がうまい」=「おもしろいマンガ」みたいなのがあるので、背景にはこだわりをもってやっています!

たかはし慶行 Yoshiyuki Takahashi

京都府福知山市出身、京都市在住。2007年成安造形大学 イラストレーションクラス卒業。2009年雑誌「増刊ヤングガンガン」(スクエア・エニックス)掲載の『大雨女』でデビュー。2011年雑誌「ビッグガンガン」(スクエア・エニックス)で『化けてりや』を連載。現在同誌にて『聖樹のパン』が連載中。2016年4月から成安造形大学で非常勤講師としてクロッキーの授業を担当する。
https://twitter.com/baketeriya?lang=ja

取材・文:西川有紀(G_GRAPHICS. INC)